武田三代〜信虎、信玄、勝頼〜
山梨県(甲斐国)を語る上で、この武将なしでは語れないと言われるほど根強い人気を誇るのが武田信玄です。
甲府駅前にも、山梨県民にとっての大きさを物語るような立派な武田信玄像が屹立
しかし、戦国時代の武田家は、決して信玄一代で築き上げられたものではありませんでした。
甲斐国の領国支配の礎を築いた信玄の父信虎。その甲斐統一の上に最強の武田軍団を築き上げた信玄。そして、武田家最大の領土を拡大したにもかかわらず、悲運にも最後の当主となってしまった勝頼。
当サイトでは、戦国の騒乱の世に、約60年に渡りその名を轟かせた、信虎、信玄、勝頼という武田三代の歴史と逸話、ゆかりの地を訪ねます。
武田信虎
1494年または1498年〜1574年
武田信虎像(大泉寺所蔵)
武田信虎は戦国時代、甲斐守護武田信縄の長男として生誕。
信虎はまだ若い少年時代に家督を継ぎ、内外の多くの戦乱を経たのち、甲斐国統一を成し遂げます。
また、館を躑躅ヶ崎に移転。甲斐の府中=甲府を建設し、城下町を整備。約60年続く戦国大名武田氏の基盤を築きあげます。
しかし、嫡男の信玄とは不仲で、後年、信玄と重臣らの手によって娘婿の領地である駿河国に追放されるという憂き目に合います。
のちに語り継がれたイメージで、「信玄に追放された暴君」として描かれることの多い信虎。
一方で、近年の研究においてはその政治的手腕も認められ、評価も高まっています。
武田信玄
1521年〜1573年
武田信玄像(武田神社所蔵)
武田信玄は、武田信虎の嫡男として生誕。
若くして父・信虎を追放し、武田家当主として甲斐国を支配、戦国最強といわれた武田軍団を形成し次々と領土を拡大していきます。
信玄は、連勝を誇る戦上手というだけでなく、領国内においては画期的な治水工事、鉱山や新田の開発なども実施。
また、多くの人材を登用、法律を整備するなど、その功績は徳川家康など後世の政治にも大きな影響を与えています。
戦国大名として類まれなる才覚で、武田家の隆盛を極めた信玄でしたが、京を目指す途中、志半ばのうちに53歳で病死します。
武田勝頼
1546年〜1582年
武田勝頼像(高野山持明院所蔵)
武田勝頼は、信玄の四男として生誕。
信玄の嫡男である義信が廃嫡され、信玄亡き後、武田家の当主として甲斐国の領国支配を継承します。
勝頼は、織田、徳川、北条など近隣の戦国大名と戦いながら、信玄が成しえなかった城を落とすなど、一時は信玄時代を上回る領土を獲得。
しかし、徳川・織田連合軍と戦った長篠の戦いの敗戦を機に、徐々に形勢不利に傾きます。
さらに家臣からの謀反もあり、武田家終焉の悲運の当主として、最期は妻子とともに天目山にて自害します。