武田信玄の生涯
誕生から元服まで
武田信玄の肖像画(武田神社所蔵)
武田信玄は、甲斐国の戦国大名・武田信虎の嫡男として大永元(1521)年、甲府で生まれました。生母は信虎の正室・大井夫人です。
実は、信玄には4歳年上の兄・竹松が存在していたとする説があり、7歳で夭折したといわれています。母は大井夫人ではなく側室の誰かと考えられています。
しかし、長男としての竹松が確実に存在したという史料に乏しく、いずれにしても信玄が嫡男であることに間違いはありません。
信玄は、幼名を太郎(一説には勝千代)といい、元服してからは晴信と名乗りました。信玄という名前は、のちに出家してからの法名です。ここでは混乱を避けるために信玄で統一します。
信玄が誕生した頃、父である信虎は宿敵の駿河国・今川氏との戦いの真っ最中でした。
当時、信虎は甲斐統一を目指し、新たな館・躑躅ヶ崎を建設。周囲を出城や砦で囲み、着々と城下町・甲府を造営していました。
しかし、まだまだ信虎に反抗する国衆がいて、その反乱に乗じて甲斐侵攻を図ろうとした今川軍と甲府の飯田河原で激突しました。
要害山
危機を感じた信虎は、身籠っていた正室の大井夫人を、詰城である要害山城にかくまいました。そして決死の覚悟で戦った武田軍は地の利を生かし、今川軍を撤退させたのです。
その勝利の勝鬨の中、要害山城で産声をあげたのが武田信玄でした。
信玄が誕生したのは要害山の麓の積翠寺という説もあり、積翠寺には信玄の産湯を汲んだと伝えられている井戸も残っています。
積翠寺より要害山城を望む
信玄の産湯を汲んだと伝えられている井戸
信玄は幼少の頃から、尾張から招かれた臨済宗五山系の高僧より、四書五経を中心に禅学や文学などを学び、幅広い教養を身につけました。
天文2(1533)年、信玄13歳の時、正室として上杉朝興の娘を迎え入れました。
上杉朝興は武蔵国南部の戦国大名で、武田氏と同盟を結んで相模国北条氏と抗争を繰り返していました。
しかし、上杉氏から信玄に嫁いだ正室は、翌年懐妊するも若くして急死してしまいます。やがて、上杉朝興も病死すると、結局その同盟も破綻してしまいました。
天文5(1536)年3月、信玄は16歳で元服、晴信と名乗ります。晴信の名前は室町幕府12代将軍の足利義晴の一字をもらって名付けられました。
元服した信玄は信虎の信濃国佐久攻めに加わり、これが初陣とされています。
のちの軍記物によると、大雪で攻めあぐね撤退しようとした武田軍の殿を務めた信玄が、奇襲作戦で佐久海ノ口城を一気に落としたともいわれています。
しかし、出来すぎた息子への警戒感からか、父・信虎はこの快挙を喜ばず、却って不興をかってしまったと、のちの父子の確執の伏線として描かれています。
天文6(1537)年、信玄は京都の公家・三条公頼の娘を正室として迎え入れました。
この正室は、のちに三条夫人または御料人様と呼ばれ、信玄との間に嫡男の義信はじめ三男二女をもうけています。
信玄と三条夫人との結婚は、京都に通じていた今川義元が仲人をしたといわれています。今川氏は、武田氏と長年敵対していましたが、今川家の後継者争いの折、信虎が義元に加勢したことによって急接近していたのです。
さらに、信虎の娘(信玄の姉)が今川義元の正室として輿入れしたことで、武田・今川の正式な同盟が結ばれました。
父・信虎の追放
天文10(1541)年、信濃侵攻を開始した信虎は海野平の戦いに勝利し、凱旋してまもなく、娘婿の今川義元を訪ねました。実は、信虎は、息子・信玄を廃嫡し、駿河へ追放する算段をしていたともいわれています。
しかし、信虎は、信玄と信玄を支持する重臣らの手によって、逆に駿河に追放されてしまったのです。
信玄は、21歳という若さで、武田家の家督を継ぎました。
この家督相続は、実の父を追放するという異例の形で行われましたが、家内に異論を唱えるものはなく、内乱に発展ることなく、平和裏に進めらました。
のちの史料が信玄側だったこともあるかもしれませんが、この追放劇に対して、少なくとも甲斐国内において信玄を親不孝ものと断罪する評価は見当たりません。
そうはいっても、孝行の道を説く儒教も学んでいた信玄が、父親を追放するに当たってはそれなりの大義名分が必要でした。
そのため、信玄自ら家臣や受け入れ先の今川義元とも入念な根回しを行っていました。
また、追放のタイミングも絶妙だったといわれています。
時代背景を見ると、信玄が信虎を追放した天文10年は、百年に一度と言われるほどの大飢饉に見舞われた年でした。
この飢饉は全国規模で起こったようですが、とりわけ甲斐国を含む中部地方は、前年の台風被害に続く大飢饉だったために、国土はかなり疲弊していたようです。
そこにきての信濃への連続の出兵、多くの犠牲を払って突進する信虎の強引な手法に、家臣のみならず、甲斐国の領民の不満は限界に達していたようです。
ある史料には牛馬に至るまで苦しんでいたと記されているほどで、信虎は相当な嫌われ者の悪徳領主として描かれています。
そこに、家臣・領民の期待を一手に担って現れたのが、若き英雄・武田信玄だったのです。
領国内を戦乱に巻き込まず、無血で行われたこの政変は、戦国時代においては大変稀な出来事でした。
その上、おそらくこのタイミングで信玄は徳政令を出して領民を救ったのではないかともいわれています。
徳政令によって領民の暮らしを助ける、尋常ならぬ交代劇で領民の支持を得るには絶好の政策でした。
四書五経に精通し、領主としての帝王学を学んできた信玄は、幼くして家督を継ぎ、血で血を洗う殺戮の中で己の立場を築いてきた信虎とは、明らかに異なる、洗練された政治手腕を持つ、新しい指導者でした。
信濃出兵
天文11(1542)年、信玄は父・信虎が着手した信濃侵攻を継承します。その手始めとしてまず諏訪に攻め入りました。
諏訪は、信濃国の入り口であり、これまで信虎が何度も争いと同盟を繰り返し、攻めあぐねていた地域でした。
諏訪の当主は諏訪氏で、当時は諏訪頼重が家督を継いでいました。その頼重に、信玄の妹・禰々が嫁いでいたのです。
いわば同盟関係にあった諏訪に対して、信玄は攻めていったのです。
この侵攻について、史料には次のような理由が挙げられています。
ひとつは、武田氏が当主交替で混乱しているときに、諏訪頼重が上杉氏と単独で同盟を結び、佐久・小県郡の分割をしていたことへの反発。
もうひとつは、逆に、諏訪頼重自身が諏訪大社をめぐる紛糾を抱え、家内に不穏な動きがあり緊張状態にあったこと。
機を見るに敏い信玄は、この同盟違反の大義と諏訪家の混乱に乗じて、近隣の高遠城主・高遠頼継と通じ、諏訪氏本拠の上原城を一気に攻め落としたのです。
信玄は、和睦と見せかけて諏訪頼重を降伏させ、身柄を甲府の東光寺に幽閉しました。そして程なく自刃に追い込んだのです。
諏訪頼重の墓(東光寺)
このとき、頼重正室の信玄の妹・禰々はわずか14歳。諏訪家の嫡男・寅王丸を産んだばかりでした。
信玄は、この寅王丸を旗印にたてて諏訪家をまとめ、今度は高遠頼継を攻めて諏訪から撤退させました。
尚、寅王丸ののちの動向ははっきりしていません。ただ、この時頼重と一緒に捕らえられた諏訪頼重の娘(母は頼重の前妻)は、のちに信玄の側室となり、武田勝頼を産むことになります。
諏訪を制圧した信玄は、上伊那、佐久、と抵抗する豪族たちをねじ伏せ、徐々に信濃での勢力を拡大していきました。
これに危機感を抱いたのは、信濃の二大勢力と言われた二人の武将です。
ひとりは信濃国守護で中信濃に勢力をもつ小笠原長時。そしてもう一人が北信濃に勢力を広げる村上義清でした。
さらに信濃に隣接する上野国の関東管領・上杉憲政もまた、信玄の勢いを何とか封じ込めようと考えていたひとりでした。
天文16(1547)年、上杉憲政は、最後まで信玄に抵抗していた佐久・志賀城を支援すべく浅間山麓に援軍を向かわせました。
信玄は、佐久の抵抗勢力の背後にいる上杉軍をはじめに叩こうと、小田井原において先制攻撃を仕掛けます。
この衝突を、小田井原の戦いといい、先手をかけた武田軍が圧倒的勝利を収めました。戦いでは、小田井原から碓氷峠までの道のりが、3000人余りの上杉軍の死体で埋め尽くされたといわれています。
信玄は上杉軍の武将の首を志賀城に晒し、敵の戦意を失墜させ、志賀城主始め城兵のほとんどを戦死させました。
戦上手といわれ、出来るだけ無益な戦は避けた信玄でしたが、小田井原の戦いほど残虐な戦いはありませんでした。
これからの信濃攻略を踏まえ、どんな手を尽くしてでも勝利を手に入れたかった信玄の執念が伺えます。この武田軍による佐久での殺戮はのちの時代まで語り継がれ、信玄は勝利と引き換えに、佐久の人々の千年の恨みを買ってしまったとも言えます。
こうして佐久郡をほぼ制圧した武田軍の勢いは、関東の上杉氏を牽制、信濃の両雄、村上氏・小笠原氏を震撼させるに十分でした。
また、信玄は信濃侵略の過程で、のちに武田家にはなくてはならない有力家臣を召し抱えることになります。
真田幸綱の肖像画(長国寺所蔵)
信虎が海野平の戦いで追放した滋野一族の中のひとり、真田幸綱(幸隆)その人です。幸綱は、出身の小県郡を離れ、上野国に逃れていたのでした。
信玄は、真田家の再興を条件に、武田家の家臣として雇い入れたのです。
もともと信濃の地に本領があった真田家を武田の家臣に取り立てたことは、その後の信濃攻めにとって有利に働いたのはいうまでもありません。
信玄は、侵攻先で有力な国衆を登用して家臣団に組み込んでいきました。戦国最強といわれた武田軍の強さの理由のひとつに、この先方衆(せんぽうしゅう)といわれる侵略先の家臣を、上手に統制したということもあるといわれています。
上田原の戦い
諏訪、上伊那、佐久、と破竹の勢いで信濃を制圧して行った信玄の前に立ちはだかったのが、北信濃を治めていた村上義清でした。
天文17(1546)年2月、信玄は、降りしきる雪を押して出陣し、村上義清との決戦に臨みました。武田軍が陣を敷いたのは千曲川・南岸の上田原、支流の産川を挟んで村上軍と対峙しました。
対する村上軍もこれ以上信玄のほしいままにはさせまいと、北信濃全軍をあげて戦いに挑みました。
のちに上田原の戦いといわれるこの戦いは、両軍入り乱れての大激戦となりました。
しかし、何といっても地元の地形を知り尽くしているのは村上軍です。村上義清は巧みな作戦で、戦いを有利に運んで行きました。
戦続きの武田軍、甲府からの遠い道のりを考えてもすでに武田軍の兵士らの疲弊は目に見えていました。
この上田原の戦いで、武田軍は古参の重臣・板垣信方や甘利虎泰らをはじめ多くの戦死者を出しました。それだけでなく信玄自身も肩に負傷するなど、初めて経験する敗戦でした。
一方の村上軍も無傷ではなく多くの死傷者を出し、上田原での両軍の睨み合いはしばらく続きました。
信玄は、板垣・甘利という重鎮を失った衝撃があまりにも大きかったからか、茫然自失となり、陣を引かずにしばらく上田原に留まったといわれています。
家臣が心配してひとまず甲府に撤退してはと進言しますが、当主としての意地もあったのか、このまま気を緩めてはここまできた信濃攻略が水泡に帰してしまうと考えたのか、信玄はなかなか腰をあげませんでした。
困り果てた重臣・駒井高白斎が、信玄の母親の大井夫人を頼って、帰陣するように文を書いてもらうほどでした。
3月になってようやく諏訪まで撤退した信玄は、村上氏が攻めて来ないのを確認しながらやっと甲府まで帰ってきたのでした。
塩尻峠の戦い
連戦連勝を誇っていた武田軍が村上軍に敗走したという噂は、瞬く間に信濃を駆け巡り、反武田方の信濃の国衆らを勢いづけました。
それどころか、武田になびいていた信濃の豪族たちも次々と信玄に反旗を翻し始めたのです。
村上義清は、信玄が帰甲した翌月には、小笠原長時らとともに武田方に落ちていた諏訪を荒らし回ります。さらに義清は信玄が攻め落とした佐久をほぼ手中に入れたのでした。
7月に入ると、諏訪の豪族たちも次々と反武田の反乱を起こし、諏訪・上原城には、武田方武将が籠城するほどでした。小笠原長時は、これを好機と上原城を取り戻すため、城を見下ろす塩尻峠に陣を張ったのです。
諏訪領内に小笠原長時乱入との知らせを受けた信玄は、直ちに兵を召集し甲府を出陣。そして甲信の国境付近まできてしばらく留まりました。
これまでの信玄だったら、一気に決着をつけるべく攻め入ったところですが、先の上田原の敗戦は、信玄に冷静さを身につけさせました。
敵陣を前にして、相手の思惑通り拙速に攻めるのではなく、小笠原軍の情報を密かに収集していたのです。
そして悟られないよう静かに上原城に入った武田軍は、その夜のうちに塩尻峠に兵を配置。早朝一気に攻撃を仕掛けました。一方、小笠原軍は甲府を出陣したと聞いた敵陣がなかなか到着しないことに気が緩み、夜の備えを怠っていました。
武田軍の早朝の奇襲作戦は功を奏し、その上、信玄の調略で、寝返った兵士もいて、武田軍の圧勝のうちに戦いは終わりました。
小笠原長時は、命からがら本拠地の松本へと敗走したのです。
塩尻峠の戦いで、信玄は上田原の戦いの雪辱を果たし、信濃での勢力を再び盛り返したのでした。
砥石城攻め
塩尻峠で小笠原軍を破った信玄は、諏訪、伊那を奪還。続いて、村上義清に奪われていた佐久を再び制圧することができました。
そして、天文19(1550)年7月、信濃の中心地の松本平に攻め入りました。
武田軍の破竹の勢いに圧倒された小笠原長時は、本拠地の林城から逃亡、信玄は戦わずして小笠原長時の属城を次々と手中に収めたのです。
こうして信玄の信濃制圧を阻むのは、北信濃の村上義清のみとなりました。
ちょうどその頃、村上義清は北信濃で高梨政頼と争っていたので、信玄はその間隙を縫って村上義清を追討しようと企てました。
8月、村上義清が属城である砥石城にいるという情報を掴んだ信玄は、慎重に砥石城を包囲し、作戦を練りに練りました。
同じ相手に二度も負けるわけにはいきません。上田原の戦いの雪辱をかけた信玄は、地元出身である真田幸綱を使って周辺の国衆への調略の手も打ちながら、開戦に踏み切りました。
しかし、三方を断崖に囲まれた砥石城は思いのほか守りが堅く、おまけに「逆さ霧」といわれる、山の頂上から流れ出るようなこの地域特有の霧に翻弄されてしまいました。
武田軍は砥石城を攻めあぐね、1ヶ月が経過してもなかなか落とすことができなかったのです。
その上、村上義清はなんと臨戦中の高梨政頼と手を組み、武田軍を挟み撃ちにする作戦に出たのです。
武田方は多くの戦死者を出し、総崩れとなりました。敗戦の色が濃くなったのを察知した信玄は、ついに撤退を余儀なくされ、武田方の諏訪まで引き上げざるを得ませんでした。
信玄は、村上義清に対して屈辱の連敗を味わったのでした。
この敗戦はのちに「砥石崩れ」といわれ、無残な敗戦として武田軍の記憶に留められたのです。
しかし、それほど武田軍を翻弄した村上義清の砥石城も、翌・天文20年5月、あっけなく落城することとなります。
その快挙は、かつての本領を取り戻すべく奔走した真田幸綱の働きによるものでした。
砥石城内には真田家ゆかりの人々も多く、その地縁・血縁を生かして武田方に寝返りをさせることに成功したのです。
砥石城落城は、それからの信玄の信濃制服に貢献する値千金の大きな一手となりました。
武田軍はその勢いのまま、松本平で抵抗を試みていた小笠原長時を追撃しました。
武田軍の勢いに押された小笠原の残党は次々に武田方に寝返り、小笠原長時は長尾景虎(上杉謙信)を頼り、越後国へ敗走したのです。
信濃における武田軍の勢いは止まるところを知りませんでした。
これまで手を焼いてきた村上義清の属城を次々と落とした信玄は、村上方武将への調略にも成功、戦わずして義清の本拠地・葛尾城を落としました。
二度にわたり信玄に勝利してきた村上義清も、武田軍の勢いの前に総崩れとなり、義清もまた上杉謙信を頼り、越後国へと亡命していったのです。
信玄が信濃侵略に着手して10年余り、天文22(1553)年、武田氏は北信濃を除いて、信濃のほぼ全土を制圧することができました。
しかし、信玄の前にまた新たな壁が立ちはだかったのです。宿命の敵手、越後国の戦国大名・長尾景虎(上杉謙信)その人でした。
上杉謙信の肖像画(上杉神社所蔵)
長尾景虎は、武田信玄より9歳年下。19歳で越後守護代の家督を継ぎ、この時すでに越後一国の実権を握っていました。
長尾景虎はのちに上杉憲政の養子として関東管領の家督を継承し、上杉姓を名乗ることになります。混乱を避けるために以後、ここでは上杉謙信に統一します。
こののち武田信玄と上杉謙信の間で繰り広げられる12年に及ぶ5度の死闘、川中島の戦いは戦国史上まれに見る長期戦となっていくのです。
甲相駿三国同盟
信玄が信濃に侵略し、その後上杉謙信との戦いに専念できたのは、甲斐国の周辺を取り巻くその他の戦国大名との関係の変化が影響しています。
というより、信玄は、上杉謙信との戦いに専念するために、三国同盟に踏み切ったという方が合っているかもしれません。
三国というのはそれぞれ国境を接する、武田氏の甲斐国・北条氏の相模国・今川氏の駿河国です。
信虎の時代から互いに攻防を繰り返してきた三国でしたが、信玄の時代になり、それぞれ自国を取り巻く情勢も変化していました。
ここにきて三国それぞれの思惑と利害が一致し、三人の子女の婚姻を基盤に急接近することとなるのです。
まず甲斐と駿河との関係は、以前から信玄の姉が今川義元に嫁いだことにより、甲駿同盟を結んでいました。しかし信玄の姉が亡くなったため、同盟をより強固なものにするために、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信の正室として嫁いで来ます。
また相模の北条氏康とは、信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に正室として嫁ぎ、甲相同盟を締結。さらに北条氏康の娘が今川義元の嫡男・氏真に嫁いで駿相同盟が成立。
こうして天文23(1554)年、甲相駿三国同盟が成立したのです。この同盟は、互いに不可侵というだけでなく、いざという時は相互に支援をするという軍事同盟でした。
武田、北条、今川の三氏はそれぞれが背後を警戒することなく、各々の領土拡大に専念することができるようにったのです。
つまり、武田信玄は信濃を完全に制圧するために、上杉謙信との戦いに。また、北条氏康は関東一帯に勢力を広げ、関東管領上杉氏との戦いに。さらに今川義元は、駿河から三河、尾張へと勢力を拡大するために。
この三国軍事同盟により、信玄は後顧の憂いなく、越後国・上杉謙信との戦いに臨むことができたのです。
川中島の戦い
武田信玄と上杉謙信が北信濃の領有権をめぐって争った戦いは、天文22(1553)年から永禄7(1564)年まで都合5回にわたって行われました。
きっかけは、武田信玄が信濃に侵攻し、越後との国境近くまで勢力範囲を拡大したことにありました。本領を追放された信濃の村上義清や高梨政頼、小笠原長時らが上杉謙信に支援を要請したのです。
合戦の戦場はまちまちでしたが、特に激戦となった第四次合戦が行われた地名に因んで総称して川中島の戦いといわれています。
川中島というのは、北信濃、善光寺平の犀川と千曲川が合流する地点です。肥沃で恵み豊かな土地ということに加えて、上野、越後、信濃府中(松本)を結ぶ交通の要所でもありました。
川中島の戦いは、12年という長きに及びましたが、実はほとんどが小競り合いか、睨み合ったっまま膠着状態が続き一旦和睦する、というような戦でした。
最も激戦となったのは、第四次合戦(1561・永禄4年)で、一般に川中島の戦いというと、この第四次合戦を指していわれることが多いようです。
前述したように、川中島周辺の要所を押さえることは、信玄、謙信それぞれにとって領国支配に必須の条件でした。
武田信玄にとっては、肥沃な土地を求めて信濃に領土を拡大し、もう少しで全土制圧。何としても北信濃の地を押さえておきたいところでした。
上杉謙信にとっては、川中島は本拠地である春日山城の目と鼻の先。昔から良好な関係にあった村上氏や高梨氏などの豪族に治めてもらった方が安心でした。
つまり、信玄は領土拡大のため、謙信は隣接豪族の安堵のためという目的の死闘だったのです。
五度の戦いの概要は以下の通りです。
第一次合戦・・天文22(1553)年 布施の戦いまたは更科八幡の戦い
本拠地・葛尾城を追われた村上義清が、上杉謙信の支援を受け、再び葛尾城を奪還します。信玄は謙信との直接対決を避け、数ヶ月後に再び村上義清を越後へ追放。
これを受けて謙信も出陣し、武田軍を撃破して行きますが、最終的に決戦は行われず両軍とも帰国しました。
第二次合戦・・天文24(1555)年 犀川の戦い
信玄は前年に甲相駿三国同盟を結び、北条氏と手を結んで互いの敵である謙信と対峙します。その上で、信濃善光寺の有力者をも味方につけ、長野盆地における勢力を拡大して行きました。
謙信は、善光寺の支配権を奪回すべく出陣し、両者は犀川を挟んで200日に及ぶ睨み合いに。長期間の膠着状態に互いの士気も下がり、信玄の呼びかけに応じた今川氏の仲介で和睦しました。
第三次合戦・・弘治3(1557)年 上野原の戦い
謙信の家中に内紛が勃発。機を見た信玄の調略により、謙信の家臣が武田方に寝返ります。さらに信玄が降雪の時期を見計らって謙信方の前進拠点を侵攻、高梨氏の居城・飯山城まで迫ります。
じりじりと北進する武田方に対し、謙信方も雪解けを待って反撃、次々と奪還して行きます。北信濃・上野原にて衝突しましたが、全面衝突にはならず両軍とも引き上げました。
第四次合戦・・永禄4(1561)年 八幡原の戦い
川中島古戦場 信玄・謙信一騎打ちの像
永禄2(1559)年、謙信は京都に上洛し、室町幕府の将軍・足利義輝から関東管領職を任ぜられました。それまで管領職を務めていた上杉憲政が北条氏康に攻められ、越後の謙信の元に亡命していたのです。
幕府から正式に憲政の後継者として認められた謙信は、その大義名文を掲げ、関東の大名を従えて北条氏の居城の小田原城を包囲します。
窮した北条氏康は同盟を結んでいた信玄に支援を要請。それを受け信玄も、謙信が関東に繰り出している背後をついて、再び北信濃に攻撃を仕掛けます。
信玄は、まず北信濃侵攻の拠点にするため海津城を築城。周辺の城を攻め落とし、武田方の勢力を一気に広げて行きました。
海津城
妻女山
信濃の情勢を聞き、謙信も北条打倒を諦めざるをえず、ひとまず越後に帰国。関東平定のためには背後を突く武田を叩くしかないと、いよいよ信玄との決戦を覚悟します。
永禄4年、謙信は信玄と対峙するため約13000の兵を率いて川中島へと向かい、武田方の海津城を見下ろす妻女山に陣を張りました。
これに対して信玄も約20000の大軍で甲府を出陣、海津城入りします。
信玄は大軍を二手に分け、一軍は謙信が陣を張る妻女山に。もう一軍は川中島・八幡原に布陣しました。最初の軍が妻女山の上杉軍を攻め、八幡原に追いやったところを迎え撃って挟み撃ちにするという、いわゆる啄木鳥戦法です。
しかしこの戦法は謙信に見破られるところとなり、川霧が立ち込める早朝、武田軍は上杉軍の急襲を受けることになったのです。
不意をつかれた武田軍は劣勢となり、信玄の弟・武田信繁や参謀の山本勘助ら名だたる重臣を失いました。のちに軍記物で有名になる信玄と謙信の一騎打ちも、このときの戦闘で行われたのではと創作されています。
もぬけの殻の妻女山に驚いた武田のもう一軍は、急ぎ八幡原へ。今度は上杉軍が挟み撃ちになり形勢は逆転。戦場は両軍入り乱れての大混戦となりました。
そして、劣勢となった上杉軍は善光寺に撤退。手負いの武田軍も追撃せず、血みどろの戦いは終わりました。この合戦での戦死者は、武田軍が4000余り、上杉軍が3000余りとされています。
両者が勝利を主張し、結局勝敗は決することができませんでした。
第五次合戦・・永禄7(1564)年 塩崎の戦い(対陣とも)
その後も謙信は北条氏康との戦いが続き、度々関東に出兵します。しかし、その都度背後を信玄に脅かされました。
そんななか、飛騨国の国衆の争いに双方が介入します。信玄はこれを機に飛騨に侵攻しようと軍を進めますが、謙信はそれを阻止すべくまたもや川中島に出陣。信玄も飛騨から撤収して川中島南部の塩崎城に入り、両軍は睨み合いになります。
対陣は2ヶ月に亘りましたが秋も深まり、両者決戦することなく撤退しました。
これ以後、信玄は侵攻の方向を変え、謙信は関東に集中。両軍が川中島で対立することはありませんでした。
12年という長期にわたって戦った信玄と謙信の戦いでしたが、結局のところ勝敗を決することができませんでした。
合戦とすれば、副大将クラスの信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助が犠牲となった武田方の敗北といえます。
一方、結果的に北信濃の領有権を獲得したのは信玄だったので、武田方の勝利ともいえます。
しかし何れにせよ、信玄と謙信が北信濃で多くの年月を費やしている間に、西側では着々と織田信長が勢力を拡大し、今川氏の人質だった徳川家康も独立、戦国勢力図は刻々と変化していたのです。
関東・西上野出兵
永禄4(1561)年信玄は、関東・西上野(上野国西部)に出兵しています。激戦となった第四次川中島の戦いのわずか2ヶ月後のことでした。
この頃、関東においては、謙信に席巻されていた北条氏が徐々に反撃を開始、上杉方から北条方に帰属した国衆が増えていました。
時を逃さず信玄も、信濃と国境を接する西上野に進出することで、北信濃での支配権を確保したかったものと思われます。
その頃上野国は、箕輪城を拠点としていた上杉方の長野業正・氏業親子が周辺の国衆を従えて治めていました。
西上野攻略は、初めは難航しましたが、長野業正が亡くなるとすぐに、箕輪城周辺の国衆を次々と調略。信玄は、長野氏業を孤立させ、ついに箕輪城を落としました。
さらに、真田幸綱・信綱親子の活躍で、周辺の城をほぼ手中に収めることに成功しました。真田一族はかつて信濃にいた頃の同族が、西上野の吾妻郡に土着していたのです。
信玄は、永禄10(1567)年には、箕輪城を拠点として西上野を支配下に置くことができました。
川中島の戦いののち、結果的に信玄が北信濃の領有権を確保することができたのも、背景に西上野制圧の成功があったからといえます。
なお、関東においても信玄と謙信とは小競り合いにはなりましたが、互いに直接対決は不利だと悟ったのか、関東において両者が正面切って戦うことはありませんでした。
義信事件
川中島の戦いの最中、外部の敵以上に厄介な難題が武田の家中においてくすぶり始めました。
信玄と嫡男・武田義信との対立です。武田家父子の確執は、実は何代にもわたって繰り広げられてきた宿命でした。
信玄の祖父の信縄とその父・信昌。信玄の父信虎と信玄。そして信玄とその子義信。戦国の世にありがちな父子の不仲ですが、ここまで代々続く家系も珍しいと言えます。
武田義信は、天文7(1538)年、信玄と正室・三条夫人との間に武田家の嫡男として生まれました。13歳で元服。義信の名前は、足利将軍家および清和源氏の流れをくむという「義」」の一字を、武田家の嫡男であるという「信」の一字をもらい名付けられました。
義信は、名実ともに由緒ある武田家の嫡男として育てられ、正室には今川義元の長女を娶り、父に従った初陣の佐久攻めでは大活躍をしました。
このまま順調にいけば歴史ある武田家を継ぎ、さらなる領国支配に拍車をかけたであろう義信。武田家にとっても、甲斐から信濃へそしてさらなる領国拡大へという大事な時期に差し掛かっていました。
この父子の対立は永禄8年に決定的なものとなりました。きっかけは信玄の今川氏に対する政策転換でした。これまで同盟を結んでいた今川氏との関係を反故にし、駿河に侵攻しようとしたのです。
北信濃や西上野に進出していた信玄は、これ以上北進や東進を続けて、強敵の上杉氏や北条氏と直接対決するのは得策ではないと考えました。
領土を拡大するなら、残るは南の駿河国。既に永禄3年の桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれてから今川氏の勢いは大きく傾き始めていたのです。
今川家の家督を継いだ氏真は、実母は信玄の姉で、信玄にとっては甥にあたります。
しかし氏真の力量に疑問を持っていた信玄は、このままでは大国の駿河が、台頭してきた織田信長や徳川家康にみすみす乗っ取られてしまうと考えました。
その前に駿河を何としても手中に入れたいと、信玄が政策転換したのも止むを得ない成り行きでした。
一方、義信にとっては、自身の妻は今川氏真の妹であり、義兄になるのです。それだけでなく母方のいとこにもあたっていました。
その上、義信の実母である三条夫人も今川義元が仲人となって嫁いできたという経緯がありました。
今川氏とは幾重にも強固な縁組をして同盟関係を結んでいたのです。その駿河に侵攻することは、義信にとって到底賛成できかねる政策転換だったのです。
折もおり、京都では足利将軍・義輝が暗殺されるという不穏な動きが起きていました。
戦国の世もいよいよ音を立てて変化していたのです。
戦乱の動きを感じた信玄は、義信の大反対を押し切って、駿河侵攻を企図。まずは織田信長と同盟を結ぼうとしました。
織田は今川にとってはまさに敵方、その織田信長と同盟を結ぶなど、もってのほか。そればかりか同盟の証に、信玄の四男・勝頼と信長の養女(姪)との縁談が進んでいるとのこと。
それでなくても、直前に勝頼が信濃の高遠城主に任ぜられたのを快く思っていない義信でした。義信は信玄の一連の動きを封じ込めようと、一部の家臣とともに謀反を企てたといわれています。
しかし謀反は事前に信玄の知るところとなり、義信は捕らえられ、東光寺に幽閉、廃嫡されてしまいました。さらに義信派の重臣らは全員処刑、追放という厳しい処罰が下されたのです。
信玄は織田信長との同盟を強行、織田家から勝頼の正室を迎えます。
ここに10年にわたる武田・今川の同盟関係は決裂しました。
東光寺
武田義信の墓
永禄10(1567)年、義信は30歳という若さで幽閉先の東光寺にて亡くなります。通説では自刃に追い込まれたといわれています。病死ではないかという一説もありますが、何れにしても義信は、幽閉先で失意のうちに亡くなったのでした。
その後、義信の正室は今川家に送還されました。二人の間には女児がいたといわれていますが、のちの消息は明らかではありません。
嫡男が謀反を企て廃嫡、その後自刃するというあまりに不幸なこの事件は、戦国大名として歴史を牽引してきた名家・武田家の最大の悲劇だったといえるかもしれません。
その後信玄の後継者として脚光を浴びてくるのが、四男・武田勝頼です。
信玄には、嫡男・義信と四男・勝頼の間に二人の男児がいたのですが、次男・竜宝は生れながらに目が不自由、また三男は早世していたため、四男の勝頼が後継者として注目を浴びることとなったのです。
今川氏・北条氏との対立
信玄が同盟を破棄したことに怒った今川氏真は、まず甲斐への塩止めを決行。そして、武田の仇敵である上杉謙信との同盟交渉を開始します。
これに対して信玄は、上杉氏の越後国内における内乱に乗じて画策をし、上杉氏の動きを封じ込めます。
その上で、駿河と国境を接している三河の徳川家康と交渉し、今川氏を挟み撃ちする作戦に出たのです。
ついに、永禄11(1568)年12月、信玄は駿河に出兵し、すでに今川家中に対する調略も進んでいたので、駿府城はあっけなく信玄の手中に落ちました。
氏真は夫人共々、命からがら遠江の掛川城へと逃げ込んだと伝えられています。
この氏真夫人とは北条氏康の娘のことで、駿河城落城の折、娘が裸足で逃げ出したという有様を聞いた氏康は、信玄に対して烈火のごとく怒ったといわれています。
そして、氏真支援に乗り出すだけでなく、武田氏と対抗するために、なんと関東において長年敵対関係であった上杉氏との和睦に踏み切ったのです。
ここに武田氏と北条氏との同盟も事実上決裂しました。
同盟の証として北条氏政に嫁いでいた信玄の長女も、泣く泣く離縁させられ、甲府に送還。程なくして病死しています。
これ以降、信玄を取り巻く周辺諸大名との関係は目まぐるしく変化していきます。
織田・徳川という新勢力の台頭や京都の足利幕府の動きも相まって、敵味方千々に入り乱れていくのです。
永禄12(1569)年、上杉氏と和睦して背後を固めた北条氏は、今川氏真を支援して駿河の薩埵峠に布陣します。
信玄もこれに応戦。甲斐国への退路を断たれた形となったこの薩埵峠の戦いは、信玄にとって久々の大苦戦でした。
まずいことに、ともに今川氏を挟み撃ちしていた徳川家康が、掛川城に籠城する今川氏真と和睦し、北条氏と内応してしまうのです。
実はこれより少し前、武田方の重臣が混乱に乗じて、遠江にいた徳川軍を攻めるという事件がおきていました。この事件をきっかけに、家康は、信玄に対して不信感を抱き始めたといわれています。
窮地に陥った信玄は、一旦駿河から手を引かざるを得ない状況になりました。今川の領土は徳川・北条氏で配分され、遠江は徳川、駿河は北条とされたのです。
尚、こののち今川氏真は北条・徳川両家の庇護のもと、伊豆、小田原、浜松と転々とすることになり、歴史の表舞台からは遠のくことになりました。
一方、一旦は身を引いた信玄でしたが、何としても駿河を手中に収めたいと、再び駿河侵攻に動き出します。
まずは駿河に絶対的な勢力を持っている北条氏を攻めることを企てました。
そのため、信玄は、北関東で北条氏と敵対する勢力と手を結んだだけでなく、あろうことか今度は長年の宿敵上杉謙信と和睦を図ることにしたのです。
そのとき、信玄が謙信との仲介を頼み込んだのは、織田信長でした。さらに謙信が忠義を尽くす将軍・足利義昭にも働きかけました。
もちろん三者三様の思惑が一致したからですが、いずれにしても信玄は、上杉氏と和睦することにより、背後を心配することなく、北条氏との対戦に踏み込むことができたのでした。
それはかつて北条氏と同盟することによって、心置きなく上杉氏との対決に臨んだように。これは何も信玄だけが、狡猾な作戦をとったというのではなく、当時の戦国武将が選んだ常套手段ともいえるのです。
駿河制圧
北条氏との決戦を開始した信玄は、まず北条支配下にあった相模国と隣接する駿東郡一帯を攻めました。
さらに方向を変え、今度は西上野から武蔵国に攻め入り南下、北条氏の本拠・小田原城を脅かします。
このとき小田原城に籠城した北条氏康・氏政に対して、信玄はあえて踏み込んだ城攻めをせず、兵を一旦撤退。追撃してきた北条軍を三増峠で迎え撃ちました。
三増峠合戦場
この三増峠の戦いでは、北条軍の先発隊の奇襲作戦を見越した武田軍が、先手をうって激戦を制します。そして、武田の実力を見せつけ、北条氏の動きを封じ込めることに成功しました。
その上で、駿河を再び攻略すべく陣を進め、北条方の城を次々と陥落、再び駿府城を奪還したのです。
元亀2(1571)年には駿河の国から北条氏を追放、信玄は念願の駿河制圧を成し遂げたのでした。
この間、武田家においては、一連の信玄の戦線に加わった武田勝頼が急成長し、名実ともに家督継承者として力をつけていました。
また、信玄の正室として京の都から嫁いできた三条夫人が、元亀元(1570)年に亡くなっています。
三条夫人の墓(円光院)
信玄との確執により自刃に追い込まれた長男・義信。北条家に嫁がせた長女もまた離縁され早世。その他も含め、三条夫人が産んだ五人の子供はほとんどが苦渋の人生を送りました。
戦国の世に翻弄され続けた女性の典型のような一生を送った三条夫人ですが、武田家のその後を思う時、夫が次々と領土を拡大し、ある意味最盛期の時にその死を迎えたのは、せめてもの救いといえるかもしれません。
徳川・織田との対立
徳川家康の肖像画(大阪城天守閣所蔵)
武田氏の駿河制圧の過程で、信玄に不信感を抱いた徳川家康は、信玄と断絶することを決意し、元亀元(1570)年、上杉氏と同盟を結びます。
この同盟を何としても阻もうとした信玄は、織田信長に働きかけ、家康に断念させるよう求めました。しかし信長は、家康と同盟関係にあること、また信玄にこれ以上西上されるのを警戒したことなどから、これに応じませんでした。
信長の対応を不服とした信玄は徐々に、家康だけでなく信長への恨みをも募らせていくことになるのです。
折も折、北条氏は北条氏で、対武田政策で何の動きも見せなかった上杉氏に対して、ふつふつと不信感を募らせていました。さらに北条氏康が病死すると、後を継いだ北条氏政が頼ったのはなんと武田信玄でした。
昨日の味方は今日の敵。逆もまた然りです。再び甲斐と相模は同盟を結ぶことになったのです。
四年ぶりの甲相同盟の復活により、信玄と北条氏政は秘密裏に国分をし、西上野を除く関東は北条氏の領土、駿河と西上野は武田氏の領土と合意しました。
信玄は、四方を敵に囲まれかねない状況から起死回生、東の背後を心配することなく西に手を広げる素地を作ったのでした。
まずは駿河から遠江に進出。さらに飛騨や美濃にも勢力を拡大し、地続きに近江・浅井長政、越前・朝倉義景、また摂津の本願寺勢力と連携する道筋を作りました。
織田信長の肖像画(長興寺所蔵)
一方、信長は姉川の戦いで近江の浅井・越前の朝倉連合軍を打ち破り、破竹の勢いで台頭してきていました。さらに元亀2(1571)年には、浅井・朝倉と連携していた比叡山を焼き打ちするという暴挙に出たのです。
信長は武家に対抗する仏教勢力の解体を目論み、同じく畿内に権力を誇っていた本願寺の顕如とも敵対していきました。実は顕如の妻は、信玄の正室・三条夫人の妹で、信玄とは義兄弟にあたっていたのです。
信長に追われた比叡山の覚如だけでなく、本願寺の顕如もまた頼った先は、ともに武田信玄でした。
加えて元亀3(1572)年、東美濃の国衆・遠山氏の当主が亡くなったのを機に、信長が一方的に自身の配下に組み込んでしまうという出来事がおきました。
東美濃は武田領と織田領の境目で、遠山氏は両家に属する国衆でした。当時、国境の国衆は両属が一般的。それを合意もなく、片方が勝手に支配下に置くことは、一触即発の事件だったのです。
遠山氏も織田氏の介入に反発、武田方を迎え入れ、東美濃における織田と武田の衝突の大きな火種となりました。
また時を同じくして、京では信長の専横ぶりに将軍・足利義昭も反感を強め、両者の溝が深まっていました。
こうして、足利義昭とともに、信玄は周辺の反信長勢力と連携し、徳川・織田打倒へと動き始めたのです。
西上作戦
元亀3(1572)年秋、信玄はおよそ3万もの大軍を率いて西に向けて進軍を開始しました。
信玄が行なったこの遠征はのちに西上作戦と呼ばれています。この作戦の最終目的が果たして上洛を目指したものか否かについては、諸説あります。
しかし、いずれにしてもまずは徳川、そしてその背後にいる織田に向けて出陣したのは間違いなかったようです。
一方、信長は、信玄の自身への敵対がそこまでだったとは気づかなかったと見え、直前まで武田氏と上杉氏との仲介に動いていました。
しかし、信玄の出陣が遠江・三河へと向かったものだと知った信長は激怒し、すぐさま家康へ援軍を送ることを決めました。
もちろん事前の準備を怠らない信玄は、朝倉氏や浅井氏また本願寺との連携を密にして、信長への牽制を布石していました。さらに加賀の一向宗にも働きかけ、上杉謙信の動きをも封じ込めていたのです。
武田軍は大軍を三軍に分け、遠江・三河の城を次々と落とし、ついには徳川方の重要拠点である二俣城を攻略したのです。
徳川家康は、直前の一言坂の戦いで、武田軍から逃げ落ち、いよいよ決戦かと敗走した浜松城で武田軍を待ち受けていました。
ところが武田軍は浜松城の前を素通り。方向転換して三河方面へ三方ヶ原まで進軍していったのです。無視された形となった家康はこれに腹を立て、信長が遣わした援軍と合流し、武田軍を追いかけるように浜松城を出陣しました。
家康は、信玄の陽動作戦にまんまと乗せられてしまったのです。徳川・織田の連合軍は三方ヶ原におびき寄せられた形となりました。
兵の数でも圧倒的に上回っていた武田軍は、百戦錬磨の信玄の作戦で、徳川・織田連合軍に圧倒的な大勝利をおさめます。この三方ヶ原の戦いでも家康は命からがら浜松城に敗走したのでした。
信玄の最期
大軍を率いて遠江、三河をほしいままに暴れまわった武田軍。このまま一気に浜松城を攻め落とし、家康を討ち取るかに見えましたが、ここで武田軍は不可思議な動きを始めます。
三方ヶ原の北端、刑部の地に留まったまま進軍を停止してしまったのです。
家康も、浜松城の目の前で武田軍に居座られ、いぶかしく思うとともに、いつ攻めてくるか気が気でなかったと思われます。
この武田軍の刑部での滞在の理由については諸説あります。
ひとつには信玄が共に信長を打倒しようと呼びかけていた、朝倉義景が戦線離脱してしてしまったこと。信玄は駐留中に再度、朝倉氏に出陣するよう要請しています。
もうひとつは、この時点で信玄の持病(肺結核、胃がんとも、諸説あり)が重症化し始めていたのではないかということ。
いずれにしても約二ヶ月の駐留ののち、武田軍はようやく進軍し、三河の野田城を包囲しますした。家康は兵力も削がれていて、信長も浅井・朝倉両軍に手間取り、今度は援軍を出すことができませんでした。
武田軍も野田城を簡単には落とせず、渇水作戦でようやく落とすと、そのまま長篠城に進軍しました。
一方、将軍・足利義昭も武田軍の進軍に合わせて京にて挙兵していました。実は、義昭の命で、在京していた信玄の父・信虎も、近江で軍勢を集めていたのです。
かつて駿河に追われたはずの父・信虎がその後、足利義昭に仕え、畿内を中心に活動、信長打倒に動いていたのでした。断絶していたと思われた父子でしたが、実は密かに連携していたのではとの説も、信虎の一連の動きに起因しています。
さらに畿内では松永氏、三好氏が反信長に呼応。そこに本願寺勢力も加わり、もはや信長は四方を敵に囲まれ絶体絶命の立場に立たされていました。
ところが、武田軍は長篠城に入ったまま、またもや進軍を停止させてしまったのです。
甲府を出陣してから、破竹の勢いで徳川軍を撃破、反信長包囲網の先陣をきっていた武田軍のここにきての迷走ぶり。
一体どうしたことか、足利義昭ら反信長派の呻吟ぶりが伺えます。また、信長、家康も信玄の身になにかあったのではと察知するのに、そう時間はかからなかったのではないかと指摘されています。
信玄の病はかなり重篤化していたのです。
撤退を余儀なくされた武田軍は、長篠城から信濃・伊那を経由して甲斐への帰路に向かわざるを得なくなりました。
武田勝頼の肖像画(高野山持明院所蔵)
自らの死期が近いことを悟った信玄は、後継者の勝頼を傍に呼び、遺言を伝えました。遺言には、信玄の死を3年間は隠すように、しばらくは他国に攻めず、国内の守りを固めるように、勝頼の子・信勝が16歳になったら、武田家の家督を継がせるように、また当面の敵である家康や信長への作戦等、細かく遺されていたと伝えられています。
元亀4(1573)年4月12日、信玄は故郷に帰還することなく帰国途上で亡くなりました。享年53歳でした。あまたの戦のたびに、必ず甲府に帰還していた信玄でしたが、今度ばかりはそれが叶いませんでした。
信玄が亡くなった場所については、三州街道沿い、信濃国伊那郡・駒場とも根羽ともいわれています。
信玄の遺体は帰甲した後、家臣の邸宅で密かに荼毘に付され、埋葬されたといわれています。武田氏館跡のほど近い住宅街の一角に信玄公墓所として言い伝えられている場所があります。
武田信玄の墓 火葬塚(甲府市 岩窪)
勝頼は、遺言通り信玄の死を秘匿したまま家督を継ぎました。そして3年の喪が明けると、恵林寺にて公な葬儀を行ったのです。
しかし、実際には、信玄の死はその直後から周囲に漏れることとなり、信長包囲網は徐々に瓦解していきました。
織田信長は窮地から脱し反転攻勢、まずは将軍・足利義昭を京から追放し、浅井・朝倉・三好を滅ぼして、畿内における実権を確固たるものにしていったのでした。
歴史年表
1521年 | 武田信虎の嫡男・太郎(晴信、のちの信玄)が積翠寺で誕生 |
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1536年 | 元服 三条公頼の娘と結婚 |
1541年 | 信虎を追放 信玄が家督を継ぎ、甲斐の国主となる |
1545年 | 上伊那を平定 |
1547年 | 甲州法度之次第(信玄家法)を制定 小田井原の戦い 佐久郡の制圧 |
1548年 | 上田原の戦い 塩尻峠の戦い |
1551年 | 砥石城を攻略 |
1553年 | 葛尾城攻略 第1次川中島の戦い |
1554年 | 下伊那・木曽を平定 武田・今川・北条の三国同盟固まる |
1555年 | 第2次川中島の戦い |
1557年 | 第3次川中島の戦い |
1559年 | 出家して信玄と名乗る |
1560年 | 釜無川に信玄堤が完成 |
1561年 | 第4次川中島の戦い 西上野出兵 |
1564年 | 第5次川中島の戦い |
1568年 | 駿府城攻略 |
1572年 | 西上作戦開始 三方ヶ原の戦い |
1573年 | 野田城を攻略 信濃・伊那にて死去 |
参考資料
『信虎・信玄・勝頼 武田三代 戦国にその名を轟かせた三代の軌跡』 平山優 サンニチ印刷
『新編 武田信玄のすべて』柴辻俊六編 新人物往来社
『武田信玄 武田三代興亡記』吉田龍司 新紀元社
『武田信玄大辞典』柴辻俊六編 新人物往来社
『武田信玄大全』二木謙一 KKロングセラーズ
『武田信玄 謎解き散歩』萩原三雄編 中経出版 新人物文庫