武田信虎

武田信虎の生涯

武田信虎の生涯

誕生から武田家の家督を継ぐまで

信虎の息子である武田信廉が描く、武田信虎の肖像画(武田信廉画、大泉寺蔵、部分)

戦国武将、武田信玄の父である武田信虎のぶとらは、明応7年(1498年)、現在の山梨県である甲斐国の守護大名、武田信縄のぶつなの長男として誕生しました。

信虎の生母は、信縄の側室、岩下氏と言われています。

幼名は不明ですが(一説には松寿丸まつじゅまる)、元服前は「五郎」、元服してのち「信直」と呼ばれ、信虎に改名したのは、大永元年(1521年)のことでした。

信虎誕生屋敷跡信虎誕生の屋敷跡 笛吹市春日居町下岩下

信虎が生まれる直前の甲斐国は、戦国騒乱の真っ只中。

武田家においても、信虎の父である信縄は、祖父の信昌のぶまさ、そして信縄の弟であり信虎の叔父に当たる油川あぶらかわ信恵のぶよしとのあいだで骨肉の争いが繰り広げられていました。

守護職が安定してきた武田家の家督かとくを巡り、国内を二分する内乱へと発展していたのです。

信縄と信昌の父子間の争いのきっかけは、信昌が長男の信縄ではなく、次男の信恵を溺愛し、家督を譲ろうとしたことが始まりでした。

こうした親子間の争いは、のちに信虎が息子である武田信玄と、また信玄も信玄の嫡男である義信とのあいだに確執が生じたことを思うと、武田一族の骨肉相食む不幸な因縁を感じさせます。

さて、この信縄と信昌・信恵の両派は、それぞれ甲斐国の国衆くにしゅうを味方につけて争います。

なかなか決着がつかず長引いたのですが、明応7年(1498年)、「明応の大地震」が起きたことを機に、一挙に和睦に向かうこととなります。

科学が未発達な時代において、天変地異が人心に与える影響は深く、政治にも大きく関与していたのでしょう。

和睦したのち、信昌が死去。信縄はついに実権を握ることになるのですが、永正2年(1509年)、ようやく手にした権力も虚しく、信縄もあえなく急死。

こうして息子であった武田信虎は、わずか10歳(一説には14歳)という若さで家督を継ぐことになったのです。

※信虎の誕生年について一説には1494年説もあり、どちらの説とするかで家督を継いだ年齢も4歳違い、信虎の立ち位置の見方も変わります。定説は1494年ですが、新しい証拠をもとに1498年という説が濃厚だとも言われています。

信虎 vs 信恵

甲斐国の騒乱の背景には、室町幕府の将軍をめぐる分裂、関東における公方くぼうの対立、今川氏など周辺諸大名の家督をめぐる争い等々、混沌とした政治情勢が絡んでいました。

まだ若い信虎は、こうした祖父、父の代から続く複雑に絡みあった内外の対立構造までも受け継ぐ形で、家督を継がなければなりませんでした。

まして父と対立した叔父の油川信恵あぶらかわのぶよしは、父亡き後も健在。

案の定、信縄の死に乗じて信虎に反旗を翻し、甲斐国守護の座をめぐって再び叔父と甥の骨肉の争いが勃発します。

永正5年(1508年)、叔父・油川信恵は、実弟の岩手縄美いわでつなよしや小山田氏といった甲斐国内の国衆を味方につけ挙兵。

対する信虎は、今井氏、大井氏、穴山氏などの国衆や武田家譜代の家臣団など総力を結集して迎え撃ちます。

この両者の激突は、現在の笛吹市である坊ヶ峰ぼうがみねで行われたと考えられ、その地名から坊ヶ峰の戦いと称されています。

現在の笛吹市、坊ヶ峰

若くして家督を継いだ信虎は、武将としての才覚を次々に発揮。また家臣団の支えもあり、坊ヶ峰の戦いで勝利を収めます。

この戦によって信恵や縄美は戦死。

信虎は、さらに追撃の手を緩めることなく、信恵に味方した郡内勢に攻め入り、小山田氏を降伏、信恵派を一気に鎮圧します。

※山梨は、今でも甲府盆地を中心とした「国中地方」と、東部富士五湖地方の「郡内地方」、南部の富士川流域の「河内地域」に分けられますが、この地域の分け方は、甲斐国統一以前の国衆の統治に由来すると考えられています。

甲斐国 国衆くにしゅうの勢力

坊ヶ峰の戦いで叔父・油川信恵を討ち取った信虎でしたが、まだ甲斐国内にはいつ反乱を起こしても不思議ではない有力国衆が、信虎の首を狙ってひしめき合っていました。

信虎にとって厄介だったのは、その国衆たちのほとんどが、甲斐源氏の流れを汲む武田一族の出身だったことでした。

先代、先先代と、何代か遡れば同じ武田の血筋を誇る親族であり、「我こそが」と戦う動機があったのです。

さらに、彼らの背後には、伊勢(北条)氏や今川氏など周辺の有力大名が後ろ盾になっていたため、信虎はその大名たちとの戦いも意識しなければなりませんでした。

当時の甲斐国の主な国衆
国衆 地域 本拠 後ろ盾の周辺大名
今井(逸見)氏  北巨摩 中尾城、獅子吼城(北杜市) 諏訪氏(信濃国諏訪郡)
栗原武田氏 甲府盆地東部 栗原館(甲州市) 関東管領上杉氏
岩手武田氏 甲府盆地東部 岩手館(山梨市) 関東管領上杉氏
穴山武田氏 甲府盆地南部 南部館(南部町) 今川氏(駿河国・遠江国)
油川武田氏 甲府盆地南東部 勝山城(甲府市中道町) 伊勢(北条)氏(相模国)
大井武田氏 甲府盆地西部 上野椿城(南アルプス市) 今川氏
小山田氏 郡内 都留 上野原城(上野原市) 伊勢(北条)氏

当時、このように国内に有力な国衆が群雄割拠していたのは、なにも甲斐国に限ったことではありませんでした。

室町幕府の権威が瓦解するとともに、たとえ幕府から代々任ぜられていた守護家であっても、その地位は決して安泰ではなく、親子、兄弟、家臣と、食うか食われるかの下克上の時代にいよいよ突入していくのでした。

信虎 vs 大井信達・今川氏親

坊ヶ峰の戦いの後、小山田氏を従属させてからしばらくは平穏な日々が続いたものの、永正10年(1513年)、再び戦乱のきっかけとなる事件が起きます。

河内地方(甲斐国南部)の支配者であった穴山氏の当主、穴山信縣のぶとうが息子によって暗殺されたのです。

穴山信縣は、信虎の大伯父に当たり、父・信縄の代から信虎を支える重鎮でした。

さらに、駿河国との国境を治めていたので、今川氏との仲介役を担っていたとも言われ、信縣の死は信虎にとって、対今川政策の面で大きな痛手となりました。

案の定、この事件により、信縣のおかげで均衡が保たれていた今川氏との関係が揺らぎ始めます。

当の穴山氏だけでなく、甲府盆地西部に勢力を奮っていた大井氏も反信虎派に傾いたのでした。

永正12年(1515年)、上野椿城主・大井信達のぶさとは後ろ盾となっていた今川氏親うじちかの支援のもと、信虎に反旗を翻します。

信虎は、すぐさま大軍を率いて信達を征伐しようとしました。大井合戦の始まりです。

椿城跡本重寺にある椿城跡石碑

通説によると、信虎は信達の本拠地椿城つばきじょうを包囲し開戦に踏み切ったものの、攻め急いだため緒戦に敗北。重臣ら、多くの兵卒を失ったとされています。

※攻め入ったのは大井館だったのではないかという説もあります。尚、大井館跡については所在地は不明。

しかし、その後、信虎は信達を攻め続け、形勢は逆転。窮した信達は、今川氏親に援軍を要請します。

要請を受けた今川氏は、この機に乗じて甲斐国を手中に収めようと一気になだれ込み、駿河との国境を封鎖、物流も封じ込めました。

同時期、天候不順も続き、飢饉に見舞われたことで甲斐国は疲弊、信虎は窮地に立たされます。

さらに、永正13年(1516年)になると、両軍は万力まんりき(山梨市)にて激突。

信虎軍を撃破した今川軍は、七覚山円楽寺しちかくざんえんらくじ(甲府市)や大蔵経寺だいぞうきょうじ(甲州市)、窪八幡くぼはちまん神社(山梨市)などの寺社や村々に放火し、追い込まれた信虎は恵林寺えりんじ(甲州市)に逃げ込むほどだったと言います。

今川軍に放火された寺社は、武田の本拠地の川田館にも近く、川田館も焼き尽くされたのではないかと考えられています。

しかし、今川軍も最後の決定打を打つことができず、信虎はなんとかこれを凌ぐと、戦いは拮抗を保ったまま断続的に続きました。

そんななか、翌年、永正14年(1517年)1月、信虎方の小山田氏が郡内地方の都留で善戦し、今川軍を撃破、撤退させることに成功したのです。

時を同じくして、今川氏も本拠地遠江国とおとうみのくにが宿敵斯波氏しばしに攻められていたという事情もあり、これまで今川氏に加勢していた甲斐の国衆が、次々と信虎の側に転じていきました。

同年3月、今川氏親は信虎と和睦を決意し、甲斐国から撤退することとなります。

まもなく、大井信達も信虎に降伏、ここに足掛け三年に及ぶ、大井合戦は終わりを迎えます。

両者は同盟を結び、その証として、信達は自身の娘を信虎に正室として嫁がせました。

この信達の娘こそ、のちに武田信玄の生母となる大井夫人その人でした。

武田信虎 大井夫人武田信虎夫人 大井の方、本名不詳(武田信廉画、長禅寺蔵、重要文化財)

甲府の建設

親族や国衆、周辺大名などとの度重なる抗争を経て、徐々に甲斐国を統一すべく主導権を握るようになっていった信虎は、それまでの本拠地である川田館を移り、新たな本拠地建設へと着手していきます。

これまで武田家の本拠地は、主に甲府盆地東部を転々としていました。

川田館は、守護職が安定してきた信虎の祖父・信昌の時代に造営、その後多少変遷はありましたが、信虎が永正11(1514)年に大規模に整備したと考えられています。

信虎が、それなりに規模も大きかった川田館を廃止した理由については、諸説挙げられていますが、主な理由は、その地理的な特徴にありました。

川田館周辺は、近くを流れる笛吹川の氾濫によって、幾度となく洪水に見舞われていました。

笛吹川だけでなく、四方を山々に囲まれた甲斐国は急流の川が多く、昔から度重なる河川の氾濫に苦しめられてきたのです。

甲斐国を治めるには、同時にその治水対策も併せて行わなければならなかったのでした。

逆に言えば、治水を制するものが甲斐国を制したとも言えるでしょう。

後世、信玄の治水政策が有名になりますが、その源は代々守護職を務めた武田家の命題だったのです。

こうした川田館の経験から、新しい館の選定に当たっては、信虎も候補地をかなり吟味したのではないでしょうか。

その後の甲府建設の足跡を辿ると、この移転の時点で、信虎は甲斐国統一を視野に新しい本拠地を中心とした都市づくりを意識していたと考えられます。

新しい館は、甲府盆地のほぼ中央に位置し、藤川と相川に挟まれた扇状地に当たります。

東、西、北の三方を山で囲まれた天然の要塞でした。

また、館周辺は、平安時代から荘園開発が進み、田畑が開墾され、さらに南側に一蓮寺という大きな寺院があるなど、すでに門前町として栄えていました。

加えて、信濃・駿河・相模・武蔵など、周辺諸国を結ぶ街道のつなぎ目の要所でもありました。

信虎は、永正16年(1519年)8月に鍬入れ式を行い、12月には館が完成、大井夫人を伴って新しい館に移転します。

この館は、東側にある、ヤマツツジがたくさん咲いていたことから名付けられた尾根「躑躅ヶ崎」に由来し、躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたと呼ばれました。

武田神社 躑躅ヶ崎館跡躑躅ヶ崎館跡(現・武田神社)

躑躅ヶ崎館を中心とした新しい都は、甲府と名付けられます(これが山梨県の県庁所在地である甲府の起源となります)。

甲府とは、「甲斐の府中」を意味し、「府中」とは律令体制における「国府(国司が政務を司る場所)」を指します。

信虎は、新しい館周辺を「甲府」と呼ばせることで、自らを室町幕府から任ぜられた守護とともに、国司の任をも併せ持つ、言わば領国の国主として、新しい都を築いたのでした。

甲府建設にあたり、信虎は、自らが居住するだけでなく譜代の家臣や国衆も住まわせます。

家臣を、それぞれの領地と切り離して館周辺に住まわせるという、この集住政策は、当初有力国衆から反発を受け、栗原氏・今井氏・大井氏など次々と反乱を起こしました。

しかし、信虎は反発の声を力でねじ伏せ、従属させます。

甲府建設は、統一以前に始められたことですが、逆に言うと、信虎は甲府建設にあたる集住政策などを通し、その統率力を強化していったとも言えるでしょう。

さらに、石和八幡宮など武田家ゆかりの寺社を勧請し、甲府の地に移転。また、大泉寺など新たな寺社も数多く建立します。

旧来の寺社を重んじることにより、民衆の心を掌握するとともに、古来地域に根ざして発展してきた寺社勢力の統制も目論んでのことでした。

一方、躑躅ヶ崎館の北側には、詰城として要害山城、西側に湯村山城、南側に一条小山砦(現・甲府城)を配置し、各地にのろし台を整備、甲府の防御を堅固に固めていきます。

また、商人や職人を招き、館の南東および南西に、八日市場や三日市場を設置。

こうして躑躅ヶ崎館を中心とした城下町としての甲府が誕生していったのでした。

甲府の整備は、その後の信玄の時代にも続いていきますが、碁盤の目のように区画された街づくりは、京都を範としていると言われ、その原型を築いた信虎の京都志向が伺えます。

※このときに原型が作られた甲府城下町の、躑躅ヶ崎館や家臣の屋敷がある北側の地域と、市場が設置された南側の商業地域は、現在でもその名残があり、いみじくもJR甲府駅を境に北側が山手、南側が下町という雰囲気を今も醸し出しています。

信虎 vs 今川氏

さて、大井合戦に介入した今川氏親は、一旦は信虎と和睦し、甲斐国から手を引きますが、甲斐攻略を諦めたわけではありませんでした。

大永元年(1521年)、再び家臣に命じ、甲斐国侵攻を開始します。

この侵攻は、河内地方を治めていた国衆の穴山氏が、今川方から信虎方に帰属したことへの報復とも言われています。

今川軍は、駿河国富士郡の富士氏を派遣、河内で迎え撃った信虎はこれを撃破しました。

氏親は、甲斐攻略のため重臣福島くしま氏に命じ、さらに大軍を送り込みます。

両軍は、大島(身延町)で激突。

ところが、この大島合戦で信虎軍は敗退し、大井氏の富田城とだじょう(南アルプス市)を攻め落とされてしまいます。

今川軍は、この富田城を足がかりに、一気に甲府の一歩手前まで侵攻してきました。

富田落城の知らせを受けた信虎は、懐妊中の正室・大井夫人を躑躅ヶ崎館から詰城である要害山城に避難させ、決死の覚悟で今川軍を迎え撃ちます。

飯田河原飯田河原 今川軍は向こうに見える登美とみの丘に布陣したと言われている

両者は同年10月、荒川の飯田河原(甲府市)で激突。今川軍は福島くしま正成率いる15000、対する信虎軍は2000ほどだったと言います。

兵の数は誇張もあるでしょうが、いずれにしても信虎軍の数を見ると、まだまだ統一への途上、甲斐国の国衆たちも、こぞって信虎方に付いていたわけでもなかったようです。

しかし、だからと言って今川方に積極的に味方をするわけでなく、成り行きによって今後の動きを決めるべく様子を見ていたと考えられます。

飯田河原は、川を渡れば躑躅ヶ崎の館はすぐ目の前。

信虎軍は、文字通り背水の陣で戦い、その結果、奇跡的に劣勢をはねのけ勝利を収めます。

飯田河原合戦跡飯田河原古戦場跡

この飯田河原合戦の最中、要害山城に避難していた大井夫人は、11月3日、無事男子を出産しています。

信虎は、起死回生の合戦の逆転勝利と、待望の嫡男誕生の喜びに沸きに沸いたことでしょう。

この男子は、勝千代かつちよと名付けられます。のちの信玄その人でした。

さて、合戦に敗れた今川軍は、拠点を勝山城(甲府市上曽根)に移して態勢を立て直し、翌月、再び甲府を攻めてきました。

両者は、荒川を挟んだ上条河原(甲斐市、または甲府市)で決戦。信虎軍は、大将の福島正成はじめ多くの兵卒を討ち取り、大勝利を収めます。

※上条河原合戦の場所について、従来甲斐市島上条とされてきたが近年の研究で、甲府市古上条ではないかという説が有力になってきています。

飯田河原、上条河原の戦に連敗した今川軍は、信虎との和睦を模索、駿河に撤退します。

しかし、戦場はいずれも甲斐国内であり、甲府陥落目前まできたこれらの戦で国土は荒れ果てます。

合戦に勝利したとは言え、痛手はかなり大きかったと思われ、信虎は翌年、民に課税をし、国の財政を立て直しています。

一方で、今川氏に勝ったことは、甲斐国内における信虎の存在感を示すのに充分であり、統一への足がかりとなります。

信虎は、その勝利を世間に知らしめるためか、翌年、大永2年(1522年)、甲斐国南部の身延山を参詣。

さらに、富士登山をして頂上の八つの峰を巡るお鉢巡りをしています。

甲斐国のみならず、隣接する今川、北条を意識した行動でしょうが、猪突猛進で連戦してきた信虎の性格を窺い知ることのできる逸話です。

甲斐国の統一

今川氏の甲府侵攻を撃破した信虎でしたが、その後も、北条氏や諏訪氏ら周辺の有力大名との抗争は続きます。

加えて、この時期、洪水や早霜、飢饉などが多発、国内はかなり疲弊していました。

そこで信虎は、享禄元年(1528年)、徳政令を出し、困窮する農民の救済を図ります。

この徳政令は、東国の戦国大名が領国内に発令した最初の徳政令だったとも言われ、後年悪政ばかりが取りざたされる信虎の別の一面を伺わせる政策です。

また、甲斐国一国に出された令ということも併せて鑑みると、この時点で甲斐国内における信虎の権限はかなり確立されていたのでしょう。

しかし、享禄4年(1531年)、武田家の譜代家臣だった飯富おぶ虎昌が、有力国衆の栗原氏や今井氏とともに謀反を起こします。

背景には、信虎が北条氏と敵対している関東上杉氏と連携したことが関連し、飯富ら反対派の家臣の反感を買ったのでした。

さらに、飯富らは信濃国諏訪の諏訪頼満に支援を要請。

これに、国衆の大井氏や穴山氏も同調したと見られ、以前から信虎に反抗していた勢力の不満が一気に爆発、大争乱となります。

しかし、着々と統一への基盤を固めていた信虎は家臣らを統率。

まず、今井・大井軍と対戦し、撃破。また、東部において栗原軍と戦いつつ、その場は家臣に任せ、自身は韮崎に向かって諏訪頼満・飯富・今井・栗原連合軍と合戦。

戦いは、塩川を挟んだ河原辺(韮崎市)で行われ、信虎は敵方を次々と討ち取り、勝利を収めます。

大坪古戦場跡大坪古戦場跡

この戦いが、実際にどの地域で繰り広げられたかは様々な説があり、地元では古戦場跡とし、釜無川と塩川に挟まれた大坪おおつぼ地域ではないかと言い伝えられています。

信虎にとって最後の抵抗勢力の国衆との戦いは、信虎に軍配が上がり、結果、諏訪頼満は諏訪に撤退、また、ひとり抵抗を続けた今井信元が籠城する獅子吼ししく城(浦城)を攻め、信元を降伏させます。

信虎に反対する勢力は、戦死するか軍門に降り、ことごとく一掃され、享禄5年(1532年)、信虎による甲斐国の統一が完成されたのでした。

こうして父・信縄の代から続く40年に渡った甲斐国内の内乱がようやく収まり、以後甲斐国に暫しの平和がもたらされることとなりました。

※信虎が館を移し、甲府ができたのは1519年、甲斐国の統一は1532年になります。

今川氏との関係

さて、信虎によって甲斐国統一は達成されたものの、隣接する今川氏や北条氏、また諏訪氏などとは相変わらず緊張状態が続いていました。

もともと、武田氏による統一がなされなかった時期は、近隣の諸大名が隙を狙って攻め入り、特に、今川氏親は、父・信繩の代から内乱に乗じて甲斐侵攻を繰り返していたのです。

氏親は、甲斐国の国衆と通じてはたびたび攻め入ってきましたが、飯田河原、上条河原の合戦の後、撤退していました。

その後、大永6年(1526年)、氏親は病死。

今川氏は、まだ幼い氏輝が家督を継ぎ、それをきっかけに、信虎はいったん今川氏と和睦します。

和睦の知らせは、早馬で甲斐国中に知らされたようです。

報を聞いた農民たちは、おやかた様のおかげで当分駿河国から攻められることもあるまいと安堵したのではないでしょうか。

しかし、安心もつかの間、家督を継いだ今川氏輝が長じると、父の代から連携していた北条氏とともに、再び甲斐国を侵攻します。

信虎も、甲斐国一国をあげて駿河国に攻め入り、両者は国境の万沢口(南部町)で激突。

戦いが膠着状態にあるなかで、今川氏は、北条氏に援軍を要請、戦いは今川軍有利に動き始めたかに思われました。

一方、信虎もまた関東上杉氏に支援を依頼。この援軍により、武田軍は決定的な敗北に至りませんでした。

武田対今川の戦いは、背後に上杉対北条の対立も巻き込んで展開し、結局勝敗は決しなかったようです。

ところが、代々続いた武田氏と今川氏の対立構造に大きな変化が生じる事件が、駿河国で起こります。

天文5年(1536年)、今川氏輝が24歳の若さで急死したのです。そして、氏輝の後継をめぐって弟たち二人が争うこととなります。

今川家の家督相続を争う内乱、花蔵はなぐらの乱が勃発。

争ったのは、今川氏親の正室の息子である義元と、重臣福島くしま氏の娘を母に持つ義元の異母兄でした。

今川義元は、このとき北条氏だけでなく、長年敵対関係にあった信虎にも支援を要請します。

信虎も、この要請に応じ、義元擁立に加担。甲斐侵攻の急先鋒だった福島氏に積年の恨みを晴らす好機として、義元派に傾いたのです。

結果、花蔵の乱は、異母兄が自刃し、義元が家督を継ぐ形で終え、以後、今川氏と武田氏は関係を修復していきます。

まず、義元の仲立ちで京都の公家、三条家の娘が、信虎の嫡男に正室として嫁ぐこととなります。

信虎の嫡男は、天文5年(1536年)正月、元服して晴信(のちの信玄)と名乗っていました。

また、信虎の娘も、義元のもとに嫁ぎ正室となります。

ここに武田と今川の同盟(甲駿同盟)が結ばれ、以降、信虎が今川氏と戦いを起こすことはありませんでした。

ところが、この同盟に腹を立てたのは、それまで今川氏と同盟関係にあった北条氏です。

手を組んで武田氏と敵対していたのですから、腹を立てるのももっともでしょう。

時の当主北条氏綱は、今川義元と断絶。北条氏は駿河に侵攻し、富士川以東の地域を占拠します。

富士川を挟んだ、この今川と北条の戦いに、信虎は今川方として戦い、北条氏を牽制します。

北条氏も、郡内地方に侵攻するなど、その矛先を甲斐にも向け、信虎の北条氏との抗争は断続的に続いていきました。

信濃侵攻

話を少し前に戻します。

享禄5年(1532年)、ようやく甲斐統一を成し遂げた信虎は、まだ北条氏・今川氏との対立が続いていた頃、国境付近を巡って和睦したり争ったりを繰り返していた諏訪氏と河原辺の戦いののち和睦します。

この諏訪氏との和睦は、駿河、相模との国境が危ないときに背後から責められないように、という策です。

諏訪氏自身も、信濃国守護の小笠原氏との抗争を抱え、両者の利害一致に基づく和睦でした。

その後、信虎は、家督を継いだ諏訪頼重よりしげに、娘(信玄の妹)を正室として嫁がせ、諏訪氏との関係を固めます。

信虎は、今川氏、関東上杉氏と同盟を結び、あろうことか長年の宿敵だった北条氏ともいったん和睦します。

この北条氏との和睦は、すぐに破棄されたのですが、今川義元にとっては寝耳に水の出来事で、後年信虎に対する不信感に繋がっていきます。

ともあれ、信虎にとっては、信濃侵攻のための地固めの一つであり、周辺を牽制してから、いよいよ信濃に触手を伸ばし始めたのです。

天文9年(1540年)、信虎は信濃国佐久郡に侵攻します。

この際、1日に36もの城を落とす勢いで猛攻撃をかけ、佐久の岩村田大井氏を降伏させ、信虎は初めて他国に領土を獲得したのでした。

佐久を平定した信虎は、領土をさらに拡大すべく、北信濃から小県ちいさがた郡に侵略していた村上義清とも手を結び、娘婿の諏訪頼重とともに、三方向から小県郡へと兵を進め、海野氏をはじめとする滋野しげの一族を攻めます。

この*滋野一族とは、海野うんの氏、望月もちづき氏、禰津ねづ氏を代表とする滋野を称する一族で、当時信濃の小県郡、佐久郡に広く勢力を拡大していました。

※のちに武田の家臣になる真田氏も滋野一族の出身です。

多くの武士団を率いていた滋野一族も、武田・村上・諏訪と三方から同時に攻められては力の差は歴然。

天文10年(1541年)、海野平うんのだいらの戦いで最後の抵抗を試みるも、武田軍らによって一族は敗れ去ります。

生き残った滋野一族の多くは上野国こうずけのくにに亡命。所領はほぼ村上氏が支配し、残りを武田氏、諏訪氏で分割します。

信虎は、佐久平以外にも、さらに領土を広げ、意気揚々甲斐国に凱旋。

しかし、実はこの海野平の戦いが、信虎の当主として最後の戦いになるとは、当人は知る由もありませんでした。

信虎追放

天文10(1541)年、信濃から凱旋した信虎は、帰甲してまもなく駿河国に出立しました。

娘が嫁いだ今川義元のもとに、信濃攻めの喧伝のためか、あるいは舅として娘や可愛い盛りの孫(のちの今川氏真)に会いにいくためか、ごくわずかの供を連れて駿河にお忍びで出かけたのです。

一説には、折り合いが悪かった嫡男の晴信(信玄)を駿河に追いやり、次男に家督を継がせようとその相談に訪れたのではないかとも言われています

しかし、晴信は、信虎が駿河との国境を越えると、家臣に命じ、たちまち万沢口(南部町)を封鎖。

信虎が甲斐国に帰還できないようにし、晴信によって逆に駿河に追放されてしまったのです。

嫡男によって父親が追放され、当主の座を追われるという、稀に見るクーデターでした。

信虎は、内乱に次ぐ内乱に明け暮れ、周辺諸国との度重なる争いを経て、ようやく国内を統一。

さらに、武田家始まって以来、他国に領土を拡大するという、いよいよこれからというその矢先、突然当主の座を追われてしまったのでした。

しかも、自身が排除しようとした嫡男の手によってですから、口惜しさに歯ぎしりし、わなわなと打ち震えたでしょう。

信虎はこのとき、44歳(48歳という説も)、晴信は21歳でした。

この信虎の追放事件の背景に関し、後年、歴史家のあいだでも様々に取りざたされ、実は信虎と晴信が組んで諜報員として駿河(のちに京都)に送り込んだのではないか、という説まであります。

しかし、信虎追放の理由として代表的な説は、一つが信虎悪政説、もう一つが父子不仲説です。

まず、信虎の悪政については、主にその外交政策において家臣との対立があったことが挙げられます。

信虎の外交政策は、そのときどきにおいて、同じ相手であっても、和睦と対立を繰り返す、という一貫性のないものでした。

信虎からすれば、未だ甲斐国の国内が安定していない状況下、いつどこから攻められるかわからないなかで、外交面で微妙な舵取りが要求されたと言えるのですが、家臣にしてみれば、ころころと変わる政策転換に嫌気が差していたのではないでしょうか。

また、信虎の性格は短気で直情径行だったようで、自分の意に添わぬ家臣を処罰したり、追放したと言います。

こうした信虎の強硬な姿勢に、家臣団の不満も鬱積していました。

さらに、統一前後の辺りから、毎年のように災害や飢饉、疫病に襲われていたなかで戦も続きで、ただでさえ国内は疲弊していました。

追い討ちをかけるように、信虎が追放される前年には大型台風が猛威を奮い、翌年の大飢饉に繋がったという経緯もあります。

家臣団のみならず、農民の心も次第に信虎から離れていったのかもしれません。

のちに言われるような、家臣を次々と手打ちにしたり、領民を虐殺したり、妊婦の腹を切り裂くといった悪逆非道な暴君とまではいかないまでも、追放劇の背景には、こういった信虎の失政があったことは否めません。

次に、信虎と晴信(信玄)の不仲についてです。

信虎は、嫡男の晴信を疎んじて廃嫡し、一歳年下の次男である信繁に家督を継がせようとしていいたのではないかと言われています。

ただ、信虎悪行説とともに、この父子不仲説も、後年になって多少脚色されたもので、同時代の明らかな事実を示す史料は決して多くはありません。

しかし、少なくとも家臣とともに父親を追放したという時点で、なにかしらの親子の対立があったことは確かです。

幼くして家督を継ぎ、内外の敵との殺戮を繰り返してきた信虎の来し方からして、たとえ親子であっても心からの信頼を寄せることができなったのでしょうか。

もしかしたら、晴信の才に早くから気づき、内心怯えていたのかもしれません。

父親が次男ばかりを可愛がり、嫡男を疎んじるというのは世間でもよくある話ですが、特に武田家にとっては、宿命とも言える連鎖でした。

信虎の祖父である信昌の代にも同じようなことがあり、そして、晴信もまたのちに嫡男との確執を抱えることとなります。

いずれにせよ、武田家の重臣と晴信が結束し、信虎を追放したことは事実であり、同時に、そのことで内乱が起きなかった、つまり無血クーデターであった、ということもまた当時としては注目すべき事柄でした。

さらに、駿河の今川義元が晴信の家督相続を認め、そのまますんなりと信虎を受け入れたこともまた興味深い事実です。

実は事前に義元と晴信の間で入念に示し合わせていたのではないかとも言われています。

信虎は、晴信を追放しようと企み、駿河に出かけ、まんまと罠にはまってしまったのです。晴信の方が一枚も二枚も上手でした。

悲しいことに、この信虎の突然の追放に、家臣のみならず、甲斐国の老若男女が大喜びし、新たな当主の誕生に沸きに沸いたというから、信虎の立つ瀬もないというもの。

以後、信虎は死ぬまで自らが統一に導いた故郷甲斐国に足を踏み入れることはありませんでした。

信虎の晩年

信虎は、天文10年(1541年)、晴信によって追放、隠居生活を余儀なくされました。

その後、77歳(81歳説あり)で亡くなるまでの30数年間、一体どういう晩年を送っていたのでしょうか。

駿河国で無念に打ちひしがれながら静かに隠遁生活を送っていたかというと、実はそうではありませんでした。

信虎の晩年を知れば知るほど、信虎という人の強かで憎めない一面が見えてきます。

信玄の英雄伝説や、勝頼の悲劇の物語の陰に隠れ、武田家を語るなかであまり表に出てこなかった信虎像の新たな解釈が、近年の研究で次々と明らかになってきています。

まず、駿河国では晴信と今川義元のあいだで、信虎の隠居料についての契約が交わされていました。

信虎の生活費は、晴信と、娘婿の義元が共同で面倒を見ていたようです。

さらに、当初わずかばかりのお供しか連れていかなかったことから、身の回りの世話をする家臣や女中なども派遣され、側室も駿河に移っています。

駿河で生まれた子どもも複数人いたと言われています。

興味深いのは、このとき信虎の正室であり、晴信の生母でもある大井夫人は、甲斐国に残留していることです。

晴信とともに年子の次男である信繁も大井夫人の実子であり、武田家にとって、この母の存在はかなり重要だったと思われますが、その点についてはまた別の項で書くことにします。

その後、信虎は、晴信による甲斐国の支配が着々と進み、信濃に領土拡大しているのを確認し、自らの復権を諦めたのか出家、「無人斎道有むじんさいどうゆう」と名乗ります。

天文12年(1543年)には、約2ヶ月に渡って京都・奈良を周遊、高野山まで足を伸ばしています。

特に、京都に強い憧れを持っていた信虎の初めての上洛でした。

信虎の宿泊先の寺院には、次男の信繁が、父が世話になったお礼の品を贈っていたことなども史料に残っています。

複雑な状況を経ながらも、息子たちの世話になりながら、信虎も案外幸せな余生を過ごしていたのかもしれません。

駿河でしばらく隠居生活を過ごしますが、義元に嫁いだ娘が亡くなると、京都に赴き、京都を拠点に駿河と行き来していたようです。

すでに駿河で生まれた息子の信友に駿河での家督を譲り、今川義元が桶狭間おけはざまの戦いで織田信長に討たれ、今川氏の当主が氏真に変わると、信虎にとっては孫に当たる氏真でしたが、急速に関係が悪化していきます。

駿河に居づらくなったのか、信虎は本格的に京都に暮らし始めます。

そして、上洛していた諸大名や公家たちとも交流、和歌を嗜み、蹴鞠けまりにも興じていたようです。

乱世の只中をくぐり抜けてきた信虎の前半生と比べ、ずいぶんと変わった暮らしだったのでしょう。

しかし、この時期も大人しく隠遁していたわけではなく、室町幕府や戦国の世の情勢変化に伴い、かつての猛者ぶりを発揮し、幕府将軍の直臣として足利義輝・義昭にも仕えています。

また、晴信との手紙のやり取りもあったとされ、武田家にとっての京都に関する情報を一手に引き受けていたのではないか、と指摘する研究者もいます。

京都においては、永禄8年(1565年)の永禄の政変で足利義輝が暗殺された際も政変に巻き込まれず、永禄11年(1568年)、織田信長が義昭を将軍に奉ずると、今度は義昭に仕えています。

この間、息子の信玄(これ以前に信玄に改名)の手によって駿河侵攻は進み、徳川との連合軍により今川氏は滅亡していました。

この一連のなかでの信虎の動きを詳細に知る史料は乏しいですが、戦国の世が音を立てて激変していくなかで、持ち前の悪運の強さで生き延びていくあたり、いかにもしぶとい信虎らしさが伺えます。

しかし、信長と信玄のあいだが徐々に険悪になるにつれ、京都での信虎の立場も微妙なものになっていきます。

元亀げんき3年(1573年)、三方ヶ原の戦いで武田信玄は織田、徳川連合軍を撃破します。

かねてより信長への不満が蓄積していた足利義昭は、信長包囲網の勢いに乗じ、信長打倒のため挙兵。

信虎は、足利義昭の命を受け、近江国甲賀に潜入し、反信長派と合流、戦いに備えます。

しかし、この動きは、内通者によって信長の知るところとなり、結局義昭は降伏、京を追われます。

信長包囲網も徐々に崩され、反信長の急先鋒だった息子の信玄も戦いの最中、病死。

己の運も最早これまでと潔く自刃するのかと思いきや、信虎は、なんとしても生き延びる道を探ります。

信長の支配下にある京都には、信虎の居場所はありませんでした。

そこで、信玄が亡くなったのだから甲斐国へ帰還できるかもしれないと、信虎は30数年ぶりに故郷を目指そうとします。

信長領の美濃を経由し、武田領である信濃国伊那に辿り着きます。

天正2年(1574年)、信虎は、信濃国高遠城で、家督を継いだ孫の武田勝頼と対面したと言います。

現代的に考えれば、感動の対面になるはずですが、そこは戦国の世。勝頼はまだ家督を継いで間もなく、いわく付きで疎遠になっていた祖父の信虎を快く受け入れるわけにはいかなかったようです。

結局、信虎は高遠に留め置かれ、同年3月に病死。享年77歳(81歳説あり)でした。

信虎の最期を看取ったのは、甲府出奔以来付き添っていた家臣の土屋昌遠と、京都でもうけた娘でした。

葬儀は、甲府の大泉寺で淡々と執り行われました。

甲斐国を統一し、甲府の基盤を築いた功労者の葬儀としては、大変質素なものだったと言われています。

武田信虎像武田信虎像 2019年 約500年ぶりに銅像として帰甲

 

歴史年表

1498 年 信虎誕生(1494年説あり)
1507年 父・信縄の死去 信虎が家督を継ぐ
1508 坊ヶ峰の戦いで叔父・油川信恵を破る
1516年 大井合戦
1519年 甲府に本拠を移す
1521年 飯田河原の戦い 信玄誕生
1531年 河原辺の戦い
1532年 甲斐国統一
1536年 今川氏の花蔵の乱に介入 義元を支持
1537年 今川氏と同盟
1540年 信濃国佐久郡を制圧 諏訪頼重と同盟
1541年 海野平の戦い 信濃国に領土を拡大
1541年 駿河国に追放される
1543年 京都・奈良・高野山を周遊
1558年 この頃から京都に滞在
1568年 足利義昭に仕える
1573年 近江国甲賀に潜入
1574年 信濃国高遠で勝頼と対面 病死享年77歳(81歳説あり)

 

参考資料
『武田信虎 覆される「悪逆非道」説』 平山優 戒光祥出版
『信虎・信玄・勝頼 武田三代 戦国にその名を轟かせた三代の軌跡』 平山優 サンニチ印刷
『武田信虎のすべて』 柴辻俊六編 新人物往来社
『「風林火山」の古道をゆく』 高橋義夫・桐野作人ほか 集英社